日本酒は一種の芸術作品である

思索

日本酒は一種の芸術作品である

日本酒は、芸術同様、一種の作品である。
設計と変数が多種多様、簡単なコピペ製品化が不可能な、一点物である。

ロラン・バルトの「作者の死」という言葉がある。
これは、文学作品のテクスト論に通ずる考え方である。

”作者は、作品を書くたびに死ぬ”
”作品において、作者は神ではない”

という言葉が示すように、何らかの作品は、Publish・公開された段階で作者の手を離れ、受け手(読みて)による自由な戯れ、解釈の解釈といった無限の可能性が開かれることを示唆する。

テクスト論においては、作者の意図がどうである、とかは極論どうでも良い。
神学や法学などに表れる解釈学はまさにそれである。

「作者>受容者」の状態、すなわち作品鑑賞において作者が支配的である状態が一方にある。
作者の意図こそが「正解」であり、その通りに解釈されなければならない、という考え方である。

一方その対極には、「作者<受容者」の状態、すなわち「作者の死」の状態がある。
作者の意図はどうでもよいただのきっかけに過ぎず、受容者の解釈に価値を置く考え方である。

同様に、日本酒の世界にも援用することが出来る。

「造り手>飲み手」の場合には、飲む温度や付け合せ、味の評価がガチガチに造り手が設定までする超プロダクト・アウト型評価である。
造り手にフォーカスされ、ストーリーが潤沢になるが、その先の発展性が少なくなる。

「造り手<飲み手」の場合には、まさに「造り手の死」が実現された状態で、造り手の意図や背景を完全に排した、超マーケット・イン型評価である。
創作・発展可能性が豊かになるが、ストーリーやキャラは枯渇する。

この対比は極論であるが、このバランスを意識することは一考に値する。

前者の例を考えるならば、たとえば「特定の正解」(純米/アル添論や、製法、設備条件や原料スペック等)を設定し思考の余地を与えないほどに強烈に教義化する(信奉を強いる)など。

後者の例を考えるならば、たとえば「理想の酒質」を完全に数値化し、超高精度の(もはや人間でない)分析器にかけて減点方式で評点していく、など。

どちらも、長所と短所があるし、現実はバランスの問題である。

そこで、1つの解としてあると思うのが、
「作者と受容者の相互コミュニケーションとしての作品鑑賞」
の視点である。

作品は相互コミュニケーションで共創される

作者(造り手)は、声を聴く(受け手からの影響を受ける)ことを前提とした開かれた作品としての投げかけを行う。
他方、受容者は作者の意図や背景を汲み取る(読解する)努力をしながら、鑑賞しフィードバックをする。

この相互ベクトルで構築される「共通了解」の関係性が、1つの在り方ではないか。
ベクトルとして、働きかけあう運動の視点が必要ではないか。

どちらかの極に振れているときというのは、一方が固定化し聞く耳を持たない、いわゆる「頑固オヤジ」化した状態である。
もはや、人間でなくロボットのほうがマシかもしれない。

「関係性の中にはじめて存在が成り立つ」視点は、和辻哲郎の「間柄的存在」に親しいものだが、双方が影響を受け合う動的な人間同士の関係性で存在が成り立ち生成変化する様は、やはり現代哲学的であり東洋思想的なものだと思う。

これは、「他者」論や「構造主義」に通ずる話。

コンセプトファースト×解釈学的醸造

毎年リセットされる日本酒造りにとって、BY(醸造年度)毎の違いで酒質を変化できることは、この動的なコミュニケーションに有効だと思う。
すなわち、単なる特定名称酒や米の品種といったSPEC・規格表示という「閉じた作品」をやめ、コンセプチュアルなテーマで暫定解を世に問う「開かれた作品」の在り方が1つだと考える。

2019BYではその商品を新たにリリースした。→ 西堀 パンセシリーズ

また、酒という商品を受容し拡げる側の(メーカーから見た外部の)世界との接続を図りたい。
旧来型の酒単体しか見ない視野狭窄の職人気質は、ややもすれば「外部」「他者」との邂逅、そして自己否定の契機を失うことになる。

バリエーション豊かなテクスト論的世界(酒の創造的活用の世界)に接触し、認識を深化させ、次なる生産の暫定解提示へ繋げる「地平」更新を行いたい。