現実を直視し、実践することの難しさ

思索

現実を直視し、実践することの難しさ

自分の卒論のテーマが西田幾多郎だったのですが、彼の哲学姿勢を示す表現として、「徹底的現実主義」という言葉があります。

その名の通り、徹底的に現実を直視し直観するスタイルです。
「純粋経験」や「行為的直観」という概念などはその極致です。

正確な文脈などは異なりますが、現実の生活への応用と考えると、べき論の喧伝に酔いしれたり、地に足つかぬ理想論で時間を費やすのではなく、事実をありのままに受け入れ、認識し、そこからどうやって生きるかを考える在り方だといえます。

これはテレビの討論番組等をみればよく分かるのですが、
典型的な例はH元知事などは現場の実践、実行、具体的行動に重きを置いて議論をします。
対して、評論家などは論理的に整合性が担保され、
誰からも批判されないような教科書的理想論を拠り所に議論します。
当然、正論ですから、後者の意見に賛成しない人などいないでしょう。
平和が良い、戦争がないのが良い、犯罪は無いほうが良い。
議論を語る上で、これは現実を直視するかしないかの違いです。

たとえば、
「戦争はなくすべきだ」という声。
だれも否定しません。誰も死にたくありません。誰もが賛成です。
こんなことを言うことは簡単かつ楽勝で、
誰からも批判されない教科書的回答です。
それゆえ、それを語ることで現実は何も変わりません。
具体的に何をするかの行動の側面まで責任をもって語る必要があります。

つまり問題は、現実を直視し、具体的な行動を見据えているかどうかです。
現実は、理想論ですべてが動いていません。
経営コンサルが経営のプロとは限らない事実。
政治学者が政策に失敗する事実。
経済学者が経済政策に失敗する事実。
正論の塊は、本屋に行けば、Googleで検索すれば腐るほど出てきます。
なぜ、正論があるのに現実は違うのでしょうか?
理論と実践は全く視点を変えなければなりません。

正論という逃げ道

正論を言うだけでは、何ら具体的な実行力はなく現実は残念ながら変わりません。
「レジスタンスの存在自体が社会のバランスに必要だ」
というような消極的な理由説明など、もはや価値はゼロに等しいのではないでしょうか。

たとえば、現在なお一般市民が今も尚殺戮されている現実を直視すべきです。
ISISの活動が現に起きているという現実を受け入れること。
現実、我々は意図せず何かしらに加担しながら生存している事実。
因果関係に執着すれば、キリのない「バタフライ効果」の議論に陥る事実。

「べき論」を語り酔いしれるのと、現実を直視し、どう対処するのか考えるのとでは、全くの別問題。
そして、言うは易く行うは難し。以上。

ということで、自分は一時期から正論系の書物は一切買わなくなりました。

実践に勝る理論なし

既に出尽くした「べき論」を丁寧にメンテしている間に、現実が変容してしまうという時代の早さに突入しています。
Time is Value、実践に勝る理論なし。

あらゆる前提条件を除外し、フラットに今の現実を直観する。
思ったものと比べて現実が変わっていなければ、結果が出ていなれば、愚痴ってないで自分でやるしかありません。
これは他責NGというW社で叩き込まれ、今なお影響を受けているシンプルな考え方に繋がります。

これはいつも忘れがちでとても難しい心構えです。