なぜ、人文科学は必要なのか?

哲学

人文科学(humanities)は、現代において肩身が狭い。

人文科学系の学部は就職率が悪く、急激な志望・専攻学生の減少が続いており、一部有名大学でも閉鎖や縮小が進んでいる(Wikipediaより)

とまで言われる始末だ。
今回は、人文科学について、簡単に思うところを記す。

人文科学とは何か

人文科学は、自然科学(いわゆるサイエンス)と対比されることが多く、
簡単に言うと、「人間とは何かについて考える学問」全般のことを指す。

たとえば、哲学、論理学、倫理学、美学、宗教学、歴史学、考古学、人文地理学、文化人類学、民俗学、言語学、文学、芸術学、教育学、心理学、人間科学などがそれに属する。(参考:人文科学

興味や認識、物事の位置付けをどこに置くか。

そのように聞かれたとき、扱う程度・対象にもよるが、人文科学の領域で物事を最終的に考えたいと私は思う。

科学という言葉がつくと、およそサイエンティフィックでロジカルであるかと思われがちだが、
それはむしろ学問という区分けのためになされたものに過ぎない。

様々な物事を描写する際に、合理と不合理、客観と主観、デジタルとアナログ、ロゴスとピュシス、主知主義と主意主義、アポロンとディオニュソス、コスモスとカオス、等々、二分した説明方法が採られる。

哲学の世界で言えば、現代哲学はまさに合理性・主知主義の限界に遭遇してきた流れがある。
ニーチェ以降の現代哲学は、「動(ダイナミズム)」の思想とも言われ、およそ合理性のみで推し量ることの出来ない有象無象で解無き混沌世界を認識しなければならないといった感覚が、その土壌にはある。

私自身も、伝統的な西洋哲学の主知主義思想にあたればあたるほど、「納得感」という個人的で、感情的で、身体的で、非合理的な直観と折り合わず、結果的に反主知主義とされる東洋思想に漂着した。
そして、実社会に出てなお、より一層その確信は深まるばかりである。

ビジネス世界における「合理化一辺倒」

ビジネス世界では、現代はVUCA時代とも言われる。計算可能で合理的な社会システム、フレームワークや再現可能な方法論を無顧慮に信奉できる時代は終焉し、成熟社会となってきた。

情報技術が発達し、論理性の極致である演算装置が量子コンピュータに至るまで発達した現代、「合理化一辺倒」への不安が現代の人間を覆っている。
合理的で誰しもが反復可能なロジックの演算で物事を導出できるならば、人間はむしろ不要でAI・プログラムに代替可能、むしろその方が理想ですらある。
しかし、有名なフレーム問題然り、人間にしか把握できない物事や決断、非合理な選択は現実として残っており、それが人間性を浮き彫りにしているとも言われる。

しかし、この人間性の特定で感傷に浸ることは目的ではない。
AI代替・人間不要論に代表される、消極的思考に陥ってしまっている理由を、改めて再考することが必要である。

経済合理性が正義と化して久しい。
仕組み化・システム化による効率化・生産性向上は、まるで錦の御旗の如く掲げられている。
日常のあらゆる営為を時間単位の金銭価値へ換算し指標化することで、人間の生活にコスパ概念が入り込む。
現代は、功利的価値観に即すことが人生の指標となっているのである。
経済合理性という、歴史の上では数百年も経たない価値観(手段)が人生の目的と化す。
「家事は労働か否か」といった、全くナンセンスな話題さえ出る始末である。(GDPという指標は、そもそも何のためにあるのか?今生きる人間のためではないのか?)

根本的な問い「いかに生きるか」

根本かつ最上位の問いは、「人はいかに生きるか」というものだと思う。
これは、結果的に哲学の領域でもあり、ほぼ全ての人文科学の内奥に横たわる問いでもある。

昔であれば、学問が神の存在証明(目的)のために扱われたこともある。
無宗教とも言われる多くの現代人、殊に日本人にとっては、より良い生き方を実現する目的のための手段・方法論として、経済学やサイエンス、技術などがあるはずだ。

たしかに、技術は世界を変える。
農業革命、産業革命、情報革命、云々、直近のコロナ禍をとっても、人間社会や職業、生活スタイルは変わる。
しかし、人は、技術に埋没し隷属してはならないと思う。
技術は、過去の不足を補う手段・ツールに過ぎない。
その技術によって、人間的な生を追求できるかどうか、その前段階の目的意識を定期的に見直さなければならない、そう自戒している。

社会全体を変える技術や出来事は、個々の行動を規定する。
自由だと思っている本人は、システムの中に埋もれている、そんなフーコーの権力的言説は、至るところで指摘される。

現代における、目的の不在

根源的な問題は、目的(われわれはいかに生きるかという問い)の不在である。

「(本来手段であるはずの)技術や構造の奴隷になっていないか?」という啓発的言説を受けて、さらに一歩先のアクション(つまり思索)をする必要がある。

即物的に無思考に、刺激と反応でまるで電灯に集まる藪蚊のごとく生命を消尽する様を、産業革命以降、現代哲学に至るまで数々の思想家たちは指摘してきた。

どんなにGDP云々の仮想的な数値概念が増大しようと、畢竟、地を離れた遊戯に過ぎない。
世の中が便利になろうとも、その先の直接的な恩恵や快のその先を考えるのが、人間らしくあるあり方ではないかと、思う。
人倫として、人として、という感覚。人間であることに少しでも価値を見出したいと思うならば、人文学の叡智は非常に参考になるものが多い。

人間的生を支えるもの

人間的な、非合理的判断を支えるのは、「自分なりの生き方(俗に言う哲学)」の内省である。(不断生成の暫定解)
これは、正解として与えられるものではない。(それは、およそ宗教と化すものである)
全ての人は思索や内省が可能であり、誰一人として全く同じ環境や感情を持つ人はいない。
その意味で、万人が哲学者であり、人生という実践知を伴う思想家である。

内から横溢する、人間のエネルギー発露、ディオニュソス的生、芸術衝動の肯定も、この中にある。そして、コンピュータと対極の人間性を見出すのは、この部分でもある。

人文科学の学問はどんどん削られていっているが、最も根幹に据えるべき、人間が人間であるための学問・思索機会が、現代から加速的に抜け落ちていく有様を憂う。

人文科学の不要論に対しては、上記のような考えを軸とし抗いたいと、前々から思っている。