言語化できるものは限られている
まず、世界は、人間の認知を超えている。
三次元空間の把握、数直線的時間軸の感覚といった、メガネをかけて論理という枠組みの中で思考せざるを得ない人間にとって、人間には見えない領域が存在することは想像できる。
※不可知論、物自体(カント)
限られた前提条件の中で、人間は何かを認識する。
このとき、主観と客観を弁別したり、現象学的還元などという構造的把握を頑張ったりという思考法もあるが、現実世界での行動が世界を構成し、主観と客観が分かれる前の直観、言語化する前の経験状態が先行するのではないか。
ここでは、具体的な身体性や行為が重要であり、東洋思想が重視する一元論的思考、修行の考え方がある。「言語化出来ない何か」の領域が広大に広がっている直観である。
人間が直観できない領域は、不可知の領域であり、何も語ることは出来ない。
そして、人間が直観できる領域には、言語化不可能なものと言語化可能なものがある。
言語化可能なものは、世界から切り出されたほんの一部である。
言葉とは、伝達可能な記号であるがゆえに、伝達前の感情や本質をざっくりと削ぎ落とす。
そして、この言葉によって人間が理性(論理)の力で持って体系化・構造化したものが、いわゆる「知識」などと呼ばれ、記憶や勉学の対象となる。
およそ、知識は重視されるが、その特性は二種類に分けることができる。
人文的知識と理論的知識
知には、様々な分類方法がある。(暗黙知と形式知、など)
思考と行動について考える上で、簡単な二種類に分けてみる。
(A)人文的知識:一回性の性質。理論化不能なもの。フロー型。歴史や伝記、芸術など。
(B)理論的知識:再現性・反復性の性質。ストック型。理論や「学問」が目指すもの全般。
理論的知識は、世の中の動きを抽象化し、理論化することを目的とするが、
その中でも二つのタイプに分かれる。
(B-1)有用性を主眼とした理論的知識
一般的に言われる「知識」である。
現実世界で有用とされるもの、ノウハウ本に書かれる類のもの全般。
(B-2)真理の追究を主眼とした理論的知識
純粋に、「宇宙とは何か」「世界とは何か」等を追求する領域である。
世界を記述する公式の発掘や、神の存在証明など、数学や哲学の領域である。
人文的知識の効用
まず、(A)人文的知識について。
これは、知に触れた人を触発する。
人を情動的に駆動させ、現実的行動に帰着させる働きがある。
歴史は、「有用だから」学ぶのではない。「好きだから」学ぶのである。
学問という機構に収まるための、体裁であることを忘れてはいけない。
およそ、人文・社会系の学問は、「有用性」に立脚していないことが多い。
政治や経済を読み解いても、後付けでは色々と「理論的なもの」は作成可能である。
しかし、現実問題として再現可能な運用ができるのかどうか。
政治学者は為政者たりえるだろうか、経済学者は富者たりえるだろうか?
学問という作法に即さざるを得ない枠組みであり、事後的な論理的解説のための”理論”である。
何かを論じる時の、論拠として援用可能なツールは作れるかもしれない。
しかし、根本にあるのは、それに携わっている時に「面白い」と思うからではないだろうか。
AIプログラムで作成された芸術作品は、価値がない。
代替不可能で、コピペ不可能な人間が作るからこそ、価値のある作品となる。
重要なのはむしろ、小説や映画を鑑賞した時の感動、「私もやってみよう!」「力が出てきた!」等の具体的な次の行動喚起の効用である。
理論的知識の効用
(B-1)有用性を主眼とした理論的知識
およそ、「学問」が生まれた現代人の教育はここに集約される。
合理的であり、想定可能であり、説明可能で、「正しい」とされ教育を受けるものである。
土俵の決まった、確実性のある将棋盤面のような合理的ルールに則った世界や、特定領域内では効力を発揮する。また、合理的説明が可能であるがゆえに、現実とは関係なく言い訳として機能し、保身の武器にもなる。(リスクヘッジのために活用するコンサル依頼資料、等)
しかしながら、不確実性の高い領域や、現実の多くの領域ではまず100%再現しない。
確実性を信奉し、石橋を叩くことに囚われた価値観に蝕まれれば、いつまでも行動に辿り着かない。鍬を買っても耕さない、ノウハウコレクターに堕す危険性がある。
また、ルール変更の極度の恐れと保身から、特定領域に閉じ籠もり、自らを視野狭窄に陥れることもある。すなわち、偏向的コスパ脳、功利ロボットの如き、およそ非人間的な演算装置パーソンが誕生する危険性も出てくる。
そして、この領域に現代人は少なからず悩まされるものである。
だから、諦観という健全な方法論で、対処すべきと考える。
(B-2)真理の追究を主眼とした理論的知識
純粋なアカデミズムであるが、およそ懐疑を続けると哲学的領域に行き着く。
義務教育の段階では、理論体系・パラダイムに疑問を抱くことを許されない。
しかし、真理の追求を極限まで続けると、先哲たちがそうであったように、正解として教え込まれた「科学」すらも近代以降の宗教的概念の一部に過ぎないということが分かってくる。
(科学哲学など。数学者が、哲学者になる所以である)
このとき、必ず、現実界・直観次元に目を向けざるを得なくなるフェーズが来る。
(B-2)においては、運命的に言語化不能な領域を含む現実界への眼差しが強制される。
いかにして、知とつきあうか
プラグマティズムという言葉がある。
高校の時に世界史の試験で「自身は歴史上の誰に似ているか?」といった半分遊びのような問題に対し、世界史の教科書では登場しないような、プラグマティストの哲学者の名前を回答した記憶がある。
当時は、プラグマティズムとは何かを本質的に理解していたわけではない。
しかし、直感的に感じた現実主義的な雰囲気・価値観は、現在に至るまで自身に通底している。
プラグマティズムは、実用主義、道具主義、などと訳されることから、ともすれば「功利主義」などと混同されるフシがあるが、比較の次元が全く異なるものである。
勝手に整理すれば、プラグマティズムに通底する価値観とは、
・主意主義(≒反主知主義)>主知主義
・実践>理論
・行動>意識
・直観(主客未分)>主観と客観の二分法
であると思う。
要するに、頭だけで考えた記号上の言語や理論は、不確実性にまみれた現実世界の大きさには全く敵わず、具体的に日々の現実的行動に帰着させることなくして全てが始まらないという確信があるということである。
だからこそ、知を前にしてなお、現実的行動のための勇気を持つための心構え・事前納得が要る。
①知は行動のための起爆剤に過ぎない
理論的知識の限界(矛盾やソースが無い、など)に直面したら、健全に諦める。
思考すればするほど、合理性・理性の限界に直面する。矛盾も発生し動けなくなる。
そもそも、世の理論的知識の大半は100%保証がない。
科学(再現性・有用性・予測可能性・合理性)が全てではなくきっかけに過ぎないと程よい諦観を持つ。科学が到達できない難問・世の不条理は、永遠である。
同時に、人文的知識に触れ、現実的行動に帰着する感情を上手に使うことを恐れない。
およそ、語り継がれる先人達は、正解の理論体系を当てはめた人生であることが少ない。
②自分自身の思想を目指す
いかに生きるかという問いは、万人共通の哲学的テーマである。
一人一人異なる思想・信条を持つことができ、各人が追究できる。
思想ある生は、結果的に「死んで生きる」ことに繋がり、記憶に刻印される。(ギリシャ的生)
虚構の理論から演繹されるのではなく、先ず現実的な日常の行為・直観が己自身の思想の土台となる。
だからこそ、日々行動し思考する。
あえて言語化すれば、平凡かもしれない。しかし、多くの哲学はそうである。
実は、どんな哲学者の思想にも、言語化出来ない領域が多分に含まれていることに気づく。(コピペ不能、唯一性)
言語化された思想は、それ単独ではありえない。哲学者の人生が必ずセットになる。
100%言語化できる思想は、抽象的な記号だけで表現可能である証であり、コピペ可能で浅いことの証明である。(現実にはありえないが)
だからこそ、思想といえども、わざわざ言語化は不要である。
小説家は思想を「文体」で示し、芸術家は思想を「作品」で示す。
各人の思想は、人生における行動と軌跡として、言語と異なる形で示される。
第三者から与えられたテンプレ的正解に、快楽主義的に追従する、無思考なる迎合的生だけが、人生ではない。
不確実なる未来へ踏み出す
科学は万能ではなく、唯一の正解ではない。
では、現代人はなぜ科学(再現性・有用性・予測可能性・合理性)を欲するのだろうか。
それは、「失敗したくない」からである。
もっと言えば、不確実な未来へ一歩進む際の「指針と決断」に万人が日々悩むからである。
これは、「いかに生きるか」という哲学的な問いとも絡んでくる。
私自身、西洋哲学をかいつまみつつも「心からの納得感」が生まれず、最終的に西田幾多郎の「純粋経験」や「行為的直観」に行き着いた理由がこれである。
頭で理解できても、心からの納得が得られない感覚。
言語化出来ないこの感覚は、後に「プラグマティズム」の価値観であることを思い知った。