歴史を学ぶ目的

思索

歴史を学ぶと聞いて、何が浮かぶか。

浅学菲才の高等学校時代、短絡的な動機と直感的な興味から、世界史と地理を選択した。
受験科目ではなかったという浅薄な理由から日本史には殆ど注力せず、10代を終えた。

詰め込みにて記憶した、世界史および地理の知識は、確かにその後大いに役立った。
その後出会う思想書の数々、諸外国の文化背景や国際ニュース、海外旅行時の観光地先での楽しみに至るまで、この2科目で記憶した知識が果たした役割はとても大きい。

エンタメとして楽しめる人類史スパンの奇人変人偉人列伝ひとつとっても、日本史に比べて時空をはるかに超越するがゆえに、「小説より奇なる事実」の数々に圧倒され楽しめるのは確かである。

しかしながら社会人として世に出、象牙の塔が懐かしくなる距離にまで身が離れ、より俗世間の現実主義的な日常生活・生存に目を向け内省に駆られるようになって、「國史(日本史)」を知ることの重要性を認識してきた。
それは、単なる知識欲や武将列伝、大河ドラマの愉楽的消費・エンタメ動機というよりもむしろ、己の「生き方」を見つめる上での土台・アイデンティティの把持が目的である。

おそらく、社会人になって改めて日本史を学ぶ必要性を感ずる人は、非常に多いと思う。
私自身でいえば、特に國酒である日本酒に携わる産業に従事しているため、必然的に日本の歴史・文化・伝統について特に考えさせられるようになった。

中国北宋の司馬光がその史書を『資治通鑑』と名付けたように、現代に於いて歴史は「鏡」として生かすものであり、「再現性の低い(非科学的なる)もの」や「享楽向けの書物」に留まらない。
史実の行間に流れるのは、人類普遍のあらゆる思考と感情であり、現代まで続くその国・地域特有の精神・文化である。

我々は、絶対的にいずれかの環境に依存し生命と成り、いずれかの固有性を宿し、いずこかの地に足をつけて日々生活している。
過去の歴史や両親から完全に切り離された単独浮遊の”現在人”なる、メタバース空間のアバターの如き記号的生命は、存在しない。
歴史なくして我々は存在せず、現代を生きる我々には、連綿と続く不断の歴史(國史)が流れている。

たとえば日本語を母国語とする者にとって、史実とともに、日本文化とはなにか、日本精神とはなにかを仮説してみることは、現代の現実的生を送る有益な指針となることは間違いない。
少なくとも、日進月歩さながらの加速主義的な、借り物の生き方よりは幾分マシなはずである。

つづく。