日本における新旧の相克

哲学

日本の雑種文化と多様性

現存する国として、日本は歴史が世界で最も長いことは有名である。
同時に、多神教であり様々な文明文化が共存する”雑種文化”とも称される。

神道由来の神社と仏教由来のお寺が入り交じり、正月やお盆、ハロウィンやクリスマスなど、多種多様な文化が独自の形で共存している。
渡来人にはじまる稲作や漢字、陶磁器技術の伝来、遣隋使・遣唐使に見る隋唐文明の積極受容、蘭学その他明治維新後の西欧技術の受容。
これらは、本家本流をそのまま受け入れるのみならず、日本流に独自生成されていったのもポイントである。

たとえば鎌倉時代以前の古代仏教は、現世御利益を重視したものにカスタマイズされていた。
また、本地垂迹説や神仏習合の発想然り、およそ源流の思想をそっくりそのまま純粋にコピペして受け継いでいるものは数少ない。

旧に新を加え、並存する

様々な文明文化の併存は、宗教に留まらない。例えば文学や芸術の分野でも、旧(ふる)きものに新しきものが加わり、両者は並存していく。

たとえば、万葉集の時代から詠まれた「短歌」や「連歌」は、17世紀頃に「俳句」という新形式が加わり、20世紀には「自由詩」が誕生している。
15世紀頃隆盛を誇った「能」や「狂言」も、江戸時代に「人形浄瑠璃」や「歌舞伎」が新たに誕生し加わり、20世紀には「大衆演劇」「新劇」などが生まれてきた。
平安後期の美的感性「もののあはれ」も、鎌倉時代には「幽玄」が生まれ、室町時代には「わび・さび」が生まれ、茶の湯文化を形成していった。

重要なのは、どれも新しいものが旧きものを排除することなく、並行して追加されていったという点である。

たとえば、大陸の文明の中では、旧きものは徹底的に排除・弾圧され、新しいもので取って代わられるという歴史を持つものも多い。
旧体系と新体系が激しく対立・衝突し、どちらかが敗北して消滅する。
民族同士の領土争いが絶えない陸続きの国家では、共生ではなく統一の道を目指すことも多い。
いわゆる、「パン(汎) Pan」の思想である。
思想や宗教に対する信仰の炎は、時に排他的精神を帯び、例えば十字軍の如き戦闘の歴史に現れる。

一方、日本においては、旧体系と新体系は激しく衝突することなく、並存し共生していく道が自然に採られていった。

これは、現代的に言えば「ダイバーシティ(多様性)ないし多元性の尊重」であり、真の平和的精神そのものである。

新旧および自他国文化の並存

時代が下れば下るほど、必然的に多様性は増し、複雑性が高まる
対立概念が並存した複雑性の高い状態が保持されれば、自然、独自発展の契機も内包される。

旧いものを大切にしているかと思えば、新しい物好きでもある。
どちらか一方に、頑なに染まることもない。
文化や思想を強制し、排除することも少ない。
複雑怪奇ゆえに、謎の独自文化が現れる。

ムラ社会や護送船団方式での同質性が指摘されることも多いが、
見渡せばあらゆる異文化が独自の形式で多様に保持されているのが、日本の特色である。

合理性・純粋主義の流行と懸念

昨今は、主に「経済合理性=正義」の波により、純粋性や合理性(ロゴス)を礼賛する価値観が多い。
ゼロイチ判定が即断できる純粋主義は、その分かりやすさと合理性から、受け入れやすく人口にも膾炙しやすい。
単純化した線引を定義し、二値的に分類・分断することによってそこに善悪の価値を付与する。
ex.日本酒の世界で言えば、アル添のネガキャンなど

しかしながら、合理性(ロゴス)に立脚した各種主義は、排外主義や差別思想との親和性も高く、特に己自身が理解不能な「他者」の存在や可能性を忘却しがちであるという点は忘れないようにしたい。
教理が浅薄になればなる程、信者は一層熱誠となるが如く、物事を単純化し線引きすることは常に危険を孕んでいる。この単純化の危険性を意識し、常に外なる価値観を配慮し続けるのが、真の哲学的姿勢である。
cf.現代思想における「脱構築」の観点

古今東西で戦争や不和が繰り返される理由の根源には、この純粋主義・画一的思想があると考えている。統一を志向する宗教や思想は、時として井底の蛙(偏狭で盲目的な信者)を量産し、不和の温床となる。特に、ファジー(曖昧)な領域を認めないものほど、危険であるといえる。
矛盾を徹底排除し完全クリーンでピュアなることは、果たして正義なのか。
日本語で言う「仕方がない」という諦めと許しの感覚が、通用しない世界は多くある。

純粋主義に染まった簡便で閉鎖的な世界の極致は、SF映画に登場する、生存と一定の幸福感のみ担保されたクリーンすぎる完全管理社会、井底の蛙、ウォール・マリアの壁の世界である。
これは、壁の外を意識する者にとってはまず面白くない。そして、現代社会ではこの壁には無数の穴が空いており、多種多様な人間が行き来し共存している。

異なる者の肯定、受容、楽しみ。現代哲学はおよそ「他者の肯定」に帰結し、日本の思想も偶然か否か昨今のこの潮流に即すポテンシャルを元来有している。
矛盾を矛盾のままに放置し受け入れ、論理すら全てを包み込む”絶対無”および”絶対矛盾的自己同一”の思想は、日本の代表的哲学者西田幾多郎の代表的概念である。

人生が元来、目的無き暇つぶしであると仮定すれば、異国・異文化が併存し、複雑怪奇なる世の中の解明や深堀り余地の溢れる世界ほど、知の探究として面白いものは無い。
ゆえに、多様性や複雑性を肯定することは、個人的な人生観とも不即不離である。

おもしろいかどうか

その点、「複雑性の肯定」および「多様性の尊重」は、健全な倫理観と諦観を有し、理解できない物事への配慮を前提とする。cf.自然に対する畏敬の念
ゆえに、究極的には平和への道を拓くものでもあり、世の中に彩りをあたえ、多様な個が発顕する”おもしろき世”たらしめる重要な精神であると思う。

そして、その精神は、既に日本においては現れている。
旧きものと新しきもの、国内文明と外来文明を並存させ、一方に染まることなく独自発展させていくのが「日本らしさ」であると思うし、その方向こそ、”おもしろき世”に至る道だと思う。

足の引っ張り合いと国全体の沈没傾向が指摘される昨今で、出る杭を打つ文化が問題だと言われる。
とはいえ、いかなる世に於いても異端が直面する運命は同じである。創造の芽を摘み、伝統という標語を盾に、前例主義や変化から逃避する安牌の精神はいかなる文化圏に於いても存在し、不景気の源泉の如く淀みと滞留を生み、批判や愚痴、怨恨といった腐敗精神に腐造転化する。歪んだメシウマ的精神は、古典文学を読むまでもなく世界共通で存在することは想像に難くない。

しかし、実は「異なるもの」「新しいもの」は、おもしろければ、便利であれば、役立つものであれば、すなわち現世主義的なものであれば、様々なものを寛大に受容する土壌がある。
このことは、日本でも既に歴史が示しており、たとえば、いかにして鎌倉仏教が広がったかを見れば、一目瞭然である。

およそ抽象的理念や高邁な標語、正論が敗残してしまう原因はここにあり、真面目で気難しく偽善的でつまらないアポロン的姿勢にある。
清濁併せ呑み、時には酒を酌み交わす、酒神・ディオニュソス的姿勢もまた、必要なのである。(笑)