コロナと自然

思索

コロナに対する人間の無力さ

新型コロナウィルスが「敵」として各国指導者が万策講じる中、
北欧スウェーデンなどをはじめ、「共生」の潮流も発生している。

醸造に携わるものとして、微生物は必須である。

麹菌や酵母など、「目に見えない何ものか」と常に対峙し対話し、
自然の力を借りて、酒という嗜好品を造っている。

目に見えない菌・ウィルスは、時には人間の敵となり味方となる。

たとえば、「火落ち」という腐造を犯すのも「乳酸菌」であるが、
酒母を造るときには「乳酸菌」の力が逆に必要になる場合もある。
また、乳酸菌は幅広い食品にとって不可欠のものである。

目に見えない生き物と共につくり上げる醸造は、
100%設計通りは事実上不可能であり、不合理な動きは一定程度許容する。
ベースにある感覚は、「人間の無力さ」の認識といえる。

自然への畏敬の念

人間は、創造的個物である。
バタフライ・エフェクトしかり、個物同士が相互的・相補的関係で働き働かされている。
共生とは、近代的な人間中心主義からの脱却を意味する。

現に、人間社会の経済活動の停止で、炭素排出量が激減している。
自然を征服し、全て「科学の力」で制圧できるという、合理主義・科学主義への疑問。
自然への畏敬の念。

人間の理性的判断を100%信奉すれば、頭で考えても分からない現実に対し絶望する。
しかし、非合理を受け容れ、健全な諦観を持つ死生観においては、日々の生きるエンジンは潰えない。

局所的視点に立てば、今回のウィルスは敵として作用している。
直近の政治課題は、医療・経済施策(量的緩和)、様々な補償など、痛ければ痛み止めを打つ、そんな対症療法となるのは当然である。
しかし、根本的な治療として考えるべきは、現代人の生活思想ではないか。

「共生」の思想

この世の主人公は、なにも人間だけではない。
この、当たり前の事実を、我々は改めて突きつけられている。

「合理的で効率的な」生活様式、すなわちネット技術を活用したスマートライフなるものが称揚されている。しかし、これは既存の価値観の延長線上、戦術的側面である。

真に回復すべきは、よく言われるように「共生」の思想ではないか。
このままだと、経済衰退が多くの人々を殺してしまう。
医療と経済、恐ろしいのは今直近で目に見えていない、後者(経済)の影響度である。

金融資本市場の不均衡な肥大化が謳われて久しいが、今回のパンデミックで、貨幣の虚構概念に支配されたシステム(現代資本主義経済)によって精神的・肉体的に殺される人が増える未来は近い。(現在はまだ医療レベルにばかりフォーカスがあてられているが、ボリュームは遥かに経済のほうが大きい)

人間社会の生態系を考えれば、この有事であっても、共生できる道はある。
しかし、個で分断化した社会ほど、共生・助け合いの道は難しい。
現代日本は、同胞を見捨て、自業自得とあしらう、社会に成り下がっているかどうか。
共生社会には、各個人の倫理観・道徳観といった、生活における共生思想がベースとなる。

たとえば、経済合理性で犠牲にしてきた自給率の低さは、日本国としては課題になる。
一極集中の偏在化・一者思想から、分散化・共生思想への転換。
ようやく数年前の議論がまた俎上に載せられる。

日々籠もるコンクリジャングル型都市の外に広がる雄大な自然を、我々は忘れかけている。
これから、どういう社会づくりを目指すのか。
自然に学ぶことは数多い。