コロナ禍における、医療と経済の両立

思索

コロナ禍が終わらない。

やや常態化しつつあり、感染者数の日々の発表にも麻痺してきた頃だろうか。
総理の辞意表明に伴うニュースに代替され、街や観光地は緩やかに戻りの兆しを見せてきた。

医療か経済か。

この二択は、この数ヶ月、至るところで耳にする。
前者は、直接的に生命の危機に直結するという点で、妥協の余地が少ないのが前提ではあるが、長期化するコロナ禍の現代、我々は両者を共存させる道を模索する必要性に迫られている。

ここで、同様の構造を取る議論を参考にしたい。

それは、アル・ゴア等が記憶に新しい環境問題についてである。
そこでは、「環境か経済か」という、議論があった。

そもそも、ロンボルグのように温暖化問題そのものは誤りであるとか、CO2と温暖化に因果関係はないとか、前提の科学的論評は一旦おいておく。

見るべきは、「環境派」と「経済派」に分かれた場合の主義主張の流れである。

アルド・レオポルドは、「土地倫理」という概念で、人間は自然の一構成員に過ぎないとし、生態系の保全を第一とする環境保全の価値観を提示した。共同体の概念を、土、水、動植物、すなわち土地全体に拡張した訳である。

また、ディープ・エコロジーという「生命圏平等主義」、つまり動植物だけでなく目に見えない微生物にまで森羅万象すべてを平等とみなす、一種宗教的・狂信的な環境保全派が台頭した。

これらの「急進的環境派」は、「経済派」とは相容れない。
彼らは、経済が全く機能しなくても、環境を保全しなければ気がすまないのである。
”環境ファシズム”とも揶揄されるように、シー・シェパードや戦争反対論者の一部のように、交渉の余地がないのが、想像できる。

他方、「経済派」は、そもそも環境保全という優先度の低い事象には全く目も向けない。

コペンハーゲン・コンセンサス2004で明らかになったように、環境保全の諸々の政策は、伝染病や栄養失調の低減に比して、圧倒的に優先度が低い。

この、両者相容れない状態を解消すべく、「環境プラグマティズム」なる動きが出てきた。
これは、環境と経済の接続であり、「生態系サービス」という捉え方をすることで、環境保全に経済的価値を見出そうという動きである。

「生態系サービス」とは、人々が生態系から直接的・間接的に享受する便益を意味し、たとえば水や木材、洪水の防止やレクリエーション、精神的充足、土壌形成など、便益の側面にフォーカスして経済的に価値があると捉える動きである。

しかし、その価値をどのように評価するか、つまり誰の視点で「価値がある」と見なすかで様々であるという問題も浮上し、正確な評価方法が難しいことも分かってきた。(そもそも、あらゆる国家の政策判断は、このような問題を根本的に抱えている。)
そこで、「費用・便益」で判断するのではなく、「リスク」で判断しようという動きが出てきた。
とはいえ、結局完全無欠なる評価というものはそもそも存在せず、批評的論評で有耶無耶になってしまったりといった流れで停滞している。

袋小路に入ったが、環境と経済の共存の道は、「環境価値」という概念で共存の道筋を作ることが出来るということは理解できると思う。(ただし、その価値の正確な評価方法は議論の余地がある)

数値化して算出することそのものに、どこまで意味があるかは疑問であるが、資本主義経済自体が人類史のわずか最近のものであると考えた際には、「生態系サービス」等の共存の道筋を示す概念創出と行動こそが、重要ではないか。

以上を考えると、「医療」と「経済」を共存させるには、たとえば感染防止としてソーシャルディスタンスを取る行動から生まれる、便益・価値に目を向けるべきだと思う。

「資源をどんどん使いたい」欲求に蓋をすることは、コロナ禍において「密になりたい」欲求に蓋することと同様の構図とみなせば、「三密を避ける」行為そのものに、付加価値を見出す道が考えられる。

たとえば、それは新たな遠隔コミュニケーションかもしれないし、遠隔のIoTサービスかも知れない。1人になる時間や在宅時間が増えることで思索時間が増えるとか、趣味やスキルアップにつながるとか、プラス側面に目を向けて価値を見出していくことが求められていると思う。

Afterコロナ、Withコロナで社会のあり方が変わる、と言われるが、背景には共存にはこの方向性が現在ベストなのだという理屈があると思う。

「医療か経済か」の相反する両者を接続する折衷案の道を模索しているという、堂々たる大義のもとに、オンラインサービスや次世代のサービス提案はされて良いと思う。