文化資本企業として生きるという選択

酒蔵は暫定解を醸す場所である。
ひと樽、ひと瓶の酒は、完成した瞬間に永遠の答えとなるのではなく、その時代における暫定的な解答にすぎない。だからこそ酒は飲まれ、語られ、記憶となり、また次の問いへとつながっていく。

私が六代目として背負っているものは、百年以上前から使い続けている蔵や建物である。
毎年、維持や修繕にかかる費用は決して小さくない。もはやピラミッド(無用?な巨大な建造物)に資本が無限に吸い取られているようだ。
資本主義から逃れることはできず、国内消費が減少し続ける日本酒市場において、ただ「生き延びる」ことは容易ではない。
では、蔵が建物や文化、歴史を守りながら未来に存在し続けるためには、どうすればよいのか。
私はその答えを「文化資本企業」としての道に見出している。

文化資本企業とは、単なるモノを売るのではなく、文化・哲学・余暇そのものを資産に変える企業である。自動化やAIが効率を極限まで押し上げる時代に、真に希少になるのは「無駄」に見えるものだ。余暇、遊び、嗜好品、そして哲学——それらはギリシャ時代の有閑階級に端を発する、人間が人間であるための贅沢であり、未来にはむしろ最大の価値となるだろう。

日本酒単体の市場は縮小している。しかし酒蔵は「意味」を提供できる。
ウイスキーの長期熟成は、時間そのものを資本に変える営みであり、未来の利益の泉となる。
日本酒は文化的アイデンティティを象徴し、ホスピタリティや体験は顧客の時間に「儀式」をもたらす。
これらが束ねられたとき、蔵は単なる酒造業を超え、「文化を資本化する企業」へと転じる。

私は大勢に理解してほしいとは思わない。それは多くの場合、徒労に終わるからだ。
我々は有限の時間を宿命づけられている。マスに迎合し、腐心し、無機質な数字の追従や経済ゲームに没入することは一時の享楽であっても、それが目的化した瞬間に虚無と後悔しか残らない。

しかし「もの」や「こと」を創造する行為は違う。
世界に介在し、痕跡を刻む。この創造の遊戯こそが時を忘れて没入できる体験であり、アドレナリンの迸りであり、そして静謐なる文化の嗜みである。
余暇を味わい、人生の至高を垣間見る瞬間——それはまさしくファウストが魂を賭けた境地にも等しい。

在野の経営者として、私は資本主義という逃れられぬ大きなゲームの中で、創造的に抗う道を選ぶ。
人文学を愛する者として、建前と本音、現実と理想という矛盾に日々向き合いながらも、なお信念と希望を携えて歩まねばならない。

経営とは収益を積み上げる作業であると同時に、無用に見えるものに意義を与える営みでもある。
だからこそ私は、文化や歴史を抱える蔵元として、商品を売るのではなく「時間をともに刻む体験」を差し出したいのだ。資本主義に囚われながらも、それに翻弄されず、価値あるものを守り抜き、共鳴できる人々と未来をつくる——それが私の信念であり、行動の源泉である。

我々は、畢竟「何を飲むか」ではなく「何を信じるか」を選んでいる。
精米歩合や品種、スペック比較の説明は、もはや飽きた。そこに未来はない。
価格改定の理由を弁明し、数円の交渉ラリーに数週間費やし、棚取りに奔走し、縮小するパイを奪い合う——それは20世紀の競争モデルであり、もはや産業の未来を拓く道ではない。

嗜好品を生み出す我々酒蔵は、家電量販店に並ぶような「機能的価値の機械」をつくっているのではない。
スペックの羅列や比較表では表現できない、文化的価値・精神的価値・物語の深みこそが、次の時代を支える。
産業の未来は、20世紀型の「数量と機能」にではなく、21世紀の「意味と信念」にしか存在しない。酒蔵が生き残る道は、モノを売るだけではなく、時間を共有する儀式を提供する場として、文化を資本化していくことである。

現代において、日本酒蔵はどこも美味しい酒を造っている。
最盛期の4分の1にまで落ち込んだ消費量を背景に、美味しくない酒を造っていたらとっくに淘汰されている。
数々の鑑評会やコンテストも、一般の目には区別できないほど高度な技術の競演となっている。
職人の技は尊いが、コンテストの評価と市場での存続は必ずしも一致しない。
このギャップは産業全体の課題でもある。(声を上げている人はあまりいない気がするが)

人は、「何を飲むか」ではなく「何を信じるか」を選んでいるのだ。
蔵元として私は、自らの哲学を暫定解として提示し続けたい。
「時を醸し、未来をつくる」——その言葉にふさわしい企業像を、酒蔵から世界へ示していきたい。