変化することは自然そのものであり美しい
哲学者ジル・ドゥルーズは、現代哲学を代表する思想家である。
『アンチ・オイディプス』を初めて読んだ時、「器官なき身体」という表現が全く何を言わんとしているかが不明であった。
著書で索かれるアルトーの詩、
皮膚の下の体は過熱した工場である
そして外では病者が輝いている
彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて
このグロテスクとも言うべき表現。
生命の灼熱的情動、流動を想起させ、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」概念との親和性を感じた。
生命の進化、躍動、創造性、太陽のプロミネンスの如き流動体のイメージがその文体から伝わり、現代哲学らしい、ニヒリズムへの対峙が伺える。
すなわち、
「生命の進化、躍動、差異の創出を肯定すること。これこそが、ニヒリズムを超える倫理である。」
という姿勢。
「差異の創出」は、個人的なテーマの一つである。
ダイナミズムの哲学
「動」の受容と肯定。
「生の哲学」は、日常において変化を積極的に肯定する力になる。
ニュートン力学(古典力学)のような「静止した真理様式」は、動いておらず(生きてはおらず)死んでいる。
およそ、日常の現象から「静止した真理様式」を理論として抽出することが学問的正義のような風潮が近代ドイツ学問以降、流布している。
アキレスと亀、ゼノンの矢のようなパラドックスを見ればわかるが、
日常(世界)をポーズ(静止)すると凡そ事態は把握できなくなる。
故に、「静止した真理様式」および日常でいう「理論」は、ガンガンかなぐり捨てて良く、適宜変化させてまったくもって問題ない。
生き方、考え方、ポリシー、そのような次元に於いても当てはまる。
変化を肯定し、本来性を回復する
思想や考えは、哲学者とてガンガン変わる。
真逆に転回することもざらにある。
危惧するのは、「己の一貫性」を重視するあまり、生きづらくなることである。
これは、本居宣長が朱子学・儒学のリゴリズム(厳格主義)に投げかけた疑問と同様である。
つまり、「もののあはれ」の追求、本来性、源氏物語バンザイの流れである。
目指すは、「健全なる自然状態」。※「健全なる」がキモ
ドゥールーズの有名なフレーズに、
「芸術は人間を待たずに始まる」
というものがある。
自然の中に、既に「美」は存在している。
ひまわりに現れるフィボナッチ数列、黄金比。
“ピュシス(自然)は隠れることを好む(ヘラクレイトス・断片123)”のであり、「静止した真理様式」の如く明確に抽出・顕在化できるものではない。
つまり、Don’t think, Feel.(=美学芸術学暫定解)