私がゴミ文章を晒す理由

思索

現代哲学は、近代の認識論的転回の時代から、言語論的転回の時代へ移ったと言われる。

「言語が世界を構成する」「異なる言語ゲームは共約不可能」という考えに立ったとき、たとえば日本語のニュアンスや感覚は、およそ母国語話者にしか伝わらない。
第二言語話者がネイティブの領域に踏み込めないのはこの次元である。

言語が異なれば、共有する前提の感覚も異なる。
つまり、言語別のリアルな地域性ごとに、別の認識世界・地平が広がっていることを意味する。

これは、日本国という国民国家的な括りだけでなく、更に細分化することができ、地方や村、家庭や個人にまで援用することが出来る。

たとえば、昨今は「個人の時代」と、どこかしこでも言われる。
昔は皆が同じテレビ番組を見ていた時代から、各個人の趣味嗜好が細分化されていき、Youtubeを各自で見るようになった時代、などとよくいわれる。
家庭によっても、その人によっても、言語や環境の認識は十人十色。
「他者性」という言葉で了解されることもある。

たとえば、私自身が書いている日本語は、かなり「閉じた」もので、人文系の本を全く読んだことのない人にとってはストレスMAXのゴミ文章なはずだ。
SEOビジネス化された、行儀の良い文章を書こうなどとは全く思っていないことの意志が伝わるかと思う。

それでは、なぜゴミ文章を垂れ流しているかといえば、この「ゴミ文章」を「文章」として、解読・共感する人に向けているからに他ならない。

たとえば、自分と似た問題意識や読書歴、思考歴を経た人にとっては、少なからず共鳴できる部分があるはずで、ありがたいことに共感する人はものすごく共感するようだ。

やはり共感というのは重要で、波長が合えば話が弾み、それが現実的行動へ帰着した際などはこの上ない面白味を日常生活に感じる訳である。

身近な人には結構Disられており(笑)、「気持ち悪」「変人」などまで言われる始末ではあるが、その先の面白味や解放感を犠牲にしてまでSTOPするほどのものでもない。いわば”中二病”であって、哲学が少しでも好きな人はわかると思う。

端的に言えば、「万人に理解される」ということは早々に諦め、哲学の文献にあたることでより一層その確信を深めたからである。

以上