メタバースというバズワードの議論こそ、生命の自覚を研ぎ澄ます。
コロナ禍、オンライン(バーチャル)とリアル、臨場感。AIの限界。
SF映画よろしく、原体験の自覚なしに、メタバースは機能しない。
原体験そのものをメタバースでインプットする、これは生身の身体性を離れているため本来では無い。
飲み会はなくなり、地縁共同体は崩壊し、いわゆる身体性を伴った昭和的な原体験の機会は失われていく。
かの原体験の土台なきメタバース化は、新人類を生み出し、ゼット世代その下の世代にとって、当たり前になるかもしれない。
もちろん、この事象そのものに善悪はない。
その世代にとって、デカルト的な機械論的身体の認識がデフォルト化し、ますますマトリックス化を是とする。
どんな歴史にもあるように、世代間のせめぎあいが起こる。
平成初期から生きてきた私としては、人間が動物的であるという自覚を推し進め、メタバース界の加工可能なアプリ装飾の非身体性の否定をしたい。
それこそが、天変地異の災害、大いなる自然の不条理、メメント・モリではなかったか。
有限性、生命の自覚、死生観の確立。
アンドロイドは、存在であって、実在ではない。そこに、死や無はなく、刻まれた歴史性も無い。
人間は、環境に包まれ、包むものである。
摂食と排泄、連続的な細胞の死滅と生成。
生命、すなわち生身の身体性の自覚、これが脱近代(脱デカルト)。
躍動する生は、今ここのリアルな生身の自覚である。
マトリックス空間に引きこもらずリアル世界を謳歌すること、これが世を味わい尽くすことに他ならない。
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