リアル世界における「存在」
目に見えるあらゆる物事を「存在」とすれば、全てのモノは「有」である。
存在は、「有」であると同時に「無」を内包している。
どういうことか。
これは、生き物が「生」であると同時に、「死」を内包していることと同じである。
人は、明日生きている保証はない。常に死と隣合わせであるという無意識的な認識を、生きている有様の中に見出している。
同様に、明日明後日、もっといえば数万年後には確実に風化してなくなるであろう「モノ」に対して、人は「無」を見出している。
これが、リアルな現実世界というものである。
メタバースの世界観
一方、たとえばメタバースの世界観はどうか。
たしかに、電子機器(サーバーマシン等)のハード・モノに依拠するという点で有限ではある。
しかし、電子空間の存在(特にメタバースの世界観)については、その存在(有)に対して「無」を見出すことはほぼ無い。
ここが、リアルとの大きな違いであり、NFT云々の情報空間上の唯一性程度では存在そのもののかけがえの無さを担保できない理由でもある。
人が人に対してかけがえのない何者かであるという認識を持つのは、そこに「命(生)」というものを直観しているからであると思う。
かけがえのなさは、メタバース世界では得られない。
それは、「存在」と「実在」という言葉で言い換えられる。
「存在」が「実在」に変わるとき
存在の中に、無(死)を見出すからこそ、かけがえのなさ、実在を感じる。
全ての存在者には、矛盾が常に含まれている。※絶対矛盾的自己同一
死を想起し、始めて生が輝く。
真の生は、死の自覚を含む。
実在が存在に優位する、この差異は、活力・価値・絶対善の有無である。
一般的に、人間は実在に価値を感じる。
稀有な「悟り」の境地に至った人間にとっては、万物を全て同じ並列の価値に見出すことができるらしい。
あたりに転がる「石ころ」であっても一人の人間と同じ重要度を見出し、彼にとっては森羅万象が実在と映る。
かけがえのない存在、すなわち実在。
石ころか、人や動物などの生命体か。
存在か、実在か。
世界は実在そのものである
世界は、常にいつ無に帰すとも限らない、杞憂なるピュシス(自然)に包まれた、冒険的世界である。
ゆえに、世界はすでに実在の論理であり、哲学的思索の辿り着く暫定解、確からしい推論の出発点は絶対矛盾的自己同一なるピュシス(自然)そのものである。
絶対矛盾的自己同一が示すのは、存在ではなく実在の世界観である。
これは畢竟、生命の世界観である。
たとえば、育児におけるかけがえの無さ。
これは、現在の子の姿が劇的に変化し、失われることを時間の経過とともに見出している。
明日も明後日も同じく開店しているチェーン店、毎日変わらないルーチンワーク。
存在と映るか実在と映るか。
生命の自覚、リアルな生身の身体性の自覚。
生命が在る場所、ピュシス=世界は実在そのものである。