「円環的時間」を取り戻す

哲学

今年も昨年に引き続き、地元の祭りやイベントが無くなった。
コロナ禍は、「季節性を感じる心」を奪う。

日本文化とはなにかを考えるとき、先述したように「自然の尊重」が挙げられるが、
それは「季節(四季)を感じる文化」であるということができる。

自分も経験があるが、日々の大半をオフィス内で過ごす仕事をしていると、
およそ季節というものが分からなくなってくる。

仕事上のプロジェクトという、人間が作り上げた仮想上のガントチャートが時間軸となり、
季節の感覚が無くなる様は、エンジニア時代にもよく体感した。

ふと季節性を僅かに取り戻すきっかけといえば、スーパーで出会う「旬」な野菜や、街頭のクリスマス等の装飾である。

たとえば、それは紅葉などの植物の変化に顕著に現れ、農作業の仕事(田植えや稲刈り等)としても現れる。
日本文化の中には、和食の料理、器、室礼、様々なところで円環的時間が表現されてきた。

私が携わる酒造業も、10月から3月の寒造りを経て、「甑倒し」をすることで季節性を感じる。
地元の祭りや催事、イベントを以てして、「今年もこの季節が来た」と感じるわけだ。

これは、春夏秋冬、季節が巡り一周回る、「円環的時間」と称され、
「直線的時間」と「円環的時間」とでよく対比される。

農耕社会として永らく持続してきた日本は、「円環的時間」の中に生きてきた社会であるといわれる。
江戸時代に代表されるように、分を弁え「持続する」ことに意味を見出し、たとえば極端な収奪や寡占は良しとされなかった。
野生動物や資源も、根絶やしに全てを収穫・収奪してしまえば、次に育ち巡ってこない。

現代社会は、いかに早く、追いつけ追い越せ、競争優位たりうるか、等の空気が濃厚だ。
一強寡占が極致である現代資本主義ビジネス界に顕著なのは、進歩史観の「直線的時間」である。
最近では「無駄で」「採算性の無い」祭りや催しなんか不要だという感覚が増えてきた。
思想は行動に反映され、行動は思想に反映される、相補的・相即的関係である。

有用性・合理性至上主義、右肩上がりの進歩史観は、欧米的発想そのものであり、特に18世紀以降の産業革命と科学の進歩でますますその強度を増してきた。
動植物を伐採・駆逐し、数字を是として欲望の赴くままに至る所の生態系が破壊・収奪された。

そして、金融危機や格差問題、原発事故、温暖化、異常気象等々、社会や環境のほころびが顕になるとともに、「直線的時間」の先に限界を感じる議論が増えてきた。
昨今の「SDGs」等は、まさにこの流れにある。
確かに、ビジネス上の眼前商機で動く当事者も多く、表層の標語やトレンドとして嘲笑されることが数多い。
しかし、デカルト以来の自然制圧・人間支配・科学万能主義の限界を感じ、次なる「あり方」を模索していることもまた事実である。

現代資本主義システムの限界が指摘されて久しい。
ドゥールーズ=ガタリが「器官なき身体」として指摘したように、既に駆動してしまった「現代資本主義システム」は、止められない。
バブル崩壊、失われた20年を経て、社会的にも、環境資源的にも、精神的にも、「このままで良いのか」という問いが常に投げかけられている。

自然を見つめ、「円環的時間」を取り戻す時期がそろそろきている。
そして、日本文化にはそのポテンシャルが存分に有る。