いま、何を為すべきか ~存在論と当為論~

哲学

いま、何を為すべきか

パンデミックの中、政策論評や最適な動き方について全世界で議論されています。

ビジネスの世界でも、日々「最善の」選択を模索し、裏には「すべきか否か」の善悪的判断を内包した、「付加価値」や「希少性」といった言葉は日常茶飯事です。

とはいえ、「何をすべきか」という問いは、世間と隔絶されていると思われている哲学の世界では王道の問いです。

哲学の問いは、存在論と当為論に分かれる

哲学の問いには「存在論」と「当為論」の二種類があると言われます。

存在論とは、「その存在はどのように成立しているのか」を問います。

たとえば、
「世界(宇宙)とはなにか」
「人間とはなにか」
「社会とはなにか」
などなど。

物理学や社会学など、あらゆる学問の基礎となるこの哲学的問いは、存在論的な問いに分類され、分野の大小あれど世の仕組みを説明しようとする意思そのものです。

一方、当為論とは、「何を為すべきか」を問います。
およそ、現代人の永遠のテーマでもあり、哲学の根幹でもあります。

たとえば、
「転職すべきか否か」
といった俗なものから、
「いかにあるべきか」
「何が正義なのか」
「いかに生きるべきか」
といった壮大なテーマにまで行き渡ります。

特に、「いかに生きるべきか」という問いは、有限の人生を歩む我々にとって、古今東西永久不滅のテーマです。

全ては当為論に帰着する。しかし、その前提には存在論がある。

ここで重要なのは、当為論は、基本的に存在論に支えられているということです。
当為(〜すべき)論は、存在論的な暫定解(認識)の上ではじめて成り立ちます。

たとえば、ビジネスの戦略であれば、「◯◯市場の仕組みはこうである」という存在論的な一定の認識(自分なりの暫定解)の下で、これからのアクションを当為論的に考えていくわけです。

数学の世界でいうところの「公理系」が「存在論的認識」に相当し、我々人間は(合理的であれ非合理的であれ)その土台から都度都度、当為論を展開していきます。

「正義とはこういうものだ」などと、ともすれば、目の前に見える「当為論」のみをコピペし受け売り信奉してしまいがちになりますが、その土台の認識を理解しない限り、心の底からの納得感は永遠に得られず、「何のためにしているのかわからない」といった事態に陥ることもあるかと思います。

当為論を追求すると、しばしばその前提となる存在論の修正に迫られることもあります。
そして、それこそが哲学的な問いの王道だと思うわけです。
ソクラテスが哲学の根幹を「いかに生きるべきか」に据えたのも納得できます。

ex. ◯◯とはこういうものである(存在論)→だから、△△すべきである(当為論)
ex. △△はすべき(善い)ことなのか?(当為論)→そもそも、◯◯とは何かを改めて考えねば(存在論)

存在論的な認識を暫定的解答として持つこと

われわれ人間が有限的生を宿命付けられている以上、全ては現実的行動(当為論)に帰着します。

しかし、その前提となる存在論的な認識は、当為論に向けられた土台・芯そのものです。
この土台の有無は、少し話すと分かったりするでしょう。

そして、諸分野ある学問領域をも全て包摂する存在論的な問いに挑んだ人類の叡智の歴史が、哲学史には刻まれています。

「真理の追求=哲学」ともいわれますが、そのモチベーションはその時代時代の当為論(その認識のもと、いかに生きるか)であったはずです。

存在論的な認識は、人によって様々です。
だからこそ、色々な人々の言説に当たる際は、できるだけその人の存在論的な認識を類推することが良いのではと思います。
そして、己自身の存在論的認識(自分なりの哲学・思想)を構築するのが良いと思っています。

たとえば、世界はどのようにできている?

日常の瑣末なテーマであれば当為論的な判断を支える、各テーマの存在論的な自分なりの解答を意識することが重要になります。

存在論のテーマを普遍的な方向でどんどん遡り続けていくと、「世界はどのようにできているのか」といった、タレス以来の古典的な問いに達していきます。

世界は、どのようにできていると思うでしょうか?
最新の宇宙論や時間論、科学の知見は尽く哲学世界に寄っていっている気がします。

正解がなく、一見すると不毛とも思えるこの問いは、自分なりの解答を持っているとあらゆる事物に演繹することができると思います。

(この記事全体を含め)何回もどこかで書いたような話ですが、私個人としては、今も昔も「絶対矛盾的自己同一」の世界観が性に合います(笑)し、ますます探求したくなっているところです。