日本酒造りと解不定性

思索

日本酒造りと解不定性

酒造りは、「解不定」である。

プログラミング可能なもの、たとえばソフトウェア等の論理的な世界では、仕様の設計をすれば解が確定する。
仕様を満たすか否かはゼロイチの世界であり、ファジーな領域は容認されない。
そこには二値(0か1か)の極めて明快な結果が現れる。
バグが見つかれば、なぜバグが出ているのか、論理的に原因追究が可能な、閉鎖的な系である。

酒造りの解不定性、ここに最大の面白みがある。

先ず第一に、相手にするのはそれ自身が変動する「生物」であること。
そして、気温や湿度、米の出来不出来、各工程での具合等、観測をしようと思えばどこまでも細かく出来てしまうわけで、「変数」が膨大である。
実社会と同様、計測機器で論理化できないレベルの複雑系となっている。
この論理化不能な領域に挑める唯一の武器が、「人間の経験・勘」なのである。

ゼロイチのbit世界との対比

ソフトウェア開発をしていた人間にとって、原因をはっきり特定できないのは非常にもどかしい。
というのも、プログラミングの世界ではバグの原因ははっきりと分かるからである。

電気信号のONとOFFで構成された論理的なビットの世界では、因果関係がはっきりしており、バタフライ効果のようなカオス論に陥ることはない。
ソフトウェアのような論理的に閉じた系の中では、因果関係がはっきりしているのである。

裏を返せば、設計図(仕様書)さえ決まってしまえば、後はプログラミングするだけであり、その具現化の作業は誰でも良い。
極論、人間ではなくて人工知能でも良いわけである。
そこには、100点を超えた101点以上の領域は存在しない。

対して、酒造りはどうか。
因果関係が完全に特定不能な世界では、思いもよらぬ110点の世界が現れる場合がある。
ある程度の設計図はもちろんするが、醸造の途中では想定外の物事が多々起こる。
酒屋さん含めよく誤解されていることだが、醸造の世界において、100%厳密に同じ酒質を維持することは原理的に不可能である。

「想定外」ゆえの面白さ

全ての物事がセオリー通りに物事が進めば、そもそも杜氏は要らない。

想定外の事態が起こったとき、いかに対処できるかが杜氏の真価であるとよく言われる。
そして、当然、結果も想定外のことがある。

プログラミングは、設計しているその最中が一番楽しい。
しかし、その設計がひとたび完成すれば、そのアウトプット、上限は決まってしまう。

100点を超えることのない、「想定可能な」世界は、つまらないと思っている。
山あり谷あり、どんなものでも変化や偶然性があるのが自然であり、それが無ければ面白くないと思う。