日本酒業界における「地酒」とは
昨日、「新世代栃木の酒 下野杜氏 新酒発表2018」が開催された。
栃木県酒造組合で、毎年弊社「西堀酒造」も参加している。
第二部、日本酒セミナーにて、日本酒ライターの山内聖子氏が、面白い問題提起をしていた。
普遍的なれど、老舗酒蔵は必ず再考するであろう問題である。
それは、「地酒」とは何か?という問いである。
原料が地元産、それで地酒なのか?
一般に、地酒として連想するのは、素材がローカルであり、ワイナリーのテロワール的であるというものである。
しかし、果たして原料が地元産、地元産…だから「地酒」なのか?
ここに山内氏も疑問を投げかけていた。
思うに、これは原料が地元であるか否かという単なる二項対立の構図である。
この形式は、一挙に興隆した「純米蔵」ブーム、すなわち米、米麹、水のみの純米酒推しと同様である。
アル添酒という単純明快なる対立項を擁立し、非アル添・純粋性に光を当てる構図である。
山内氏は、「地元の人が飲んでいるかどうか」という定義を一案として提案された。
包み隠さぬ鋭い指摘は、非常に面白かった。
地元で変えないお酒は、地酒といえるのか?
地元で買えない酒蔵は、そもそもいいのか?
ハレの日ではなくケの酒、田舎に愛されるというイメージが通底にあると感じた。
しかしながら、「地元の人間に飲まれているかどうか」を客観数値的に判断することは難しい。
課税移出出荷量の定量的な構成比判断なのか?
流通アクセスの網羅性で判断するのか?
背景には、企業体としての存続という資本主義経済の大前提がある。
販売不振の背水の陣から、地方の蔵がやむにやまれず東京に出てきた。
斬新な味がメディアに取り上げられ、各蔵は話題の味に寄せるようになった。
結果、同じような酒質になった。
売れない限り、酒蔵は存続しない。
このシビアな現実が大前提としてあることをまず受け入れなければならない。
地域共同体とともにあるということ
ここで、地酒とは何かを改めて考えた時、「地場の酒蔵」という概念、もっと言えば地域共同体の概念が有用ではないか。
つまり、地酒とは、「地場の酒蔵が醸した酒」であるかどうかという観点がありえると思う。
「地酒」とは何か。
ここに明確な定義はないし、明確なる対立項も存在しない。
フランスの哲学者に、シモーヌ・ヴェイユという女性がいた。
彼女の著書、『根を持つこと』にて、ヴェイユは生きていく土地や地域、国に特有の風土や慣習に育まれた人間精神、つまり「根を持った状態」が尊いものであると主張する。
この根が失われた状態、それが「根こぎ」である。
ヴェイユは、人間存在そのものが根こぎにされていく1940年代の様を憂いていた。
人間は、一人で生きることはできない。
必ずどこかの共同体に身を置き、そこに身を置かなければ生きることが難しい。
これは、会社・企業も同様である。
其の意味で、地場の酒蔵であるかどうかは、地域共同体との繋がりで判断されるものである。
そして、地酒とは「地場の酒蔵が醸す酒」である。
それは、酒質云々という次元で語るものでも、石高や出荷スケールで判断されるものでもない。
「地酒」とは何か?
この問いが投げかけられたとき、土着性、老舗、地域共同体といった、酒という商品も経済指標をも超えたものを感じる。
そして、老舗企業の在り方を改めて問われているとも感じた。