哲学は、コスパ最強の趣味

思索

哲学は、コスパ最強の趣味

「神は死んだ」。
かの有名な、フリードリヒ・ニーチェの言葉。

哲学的問におけるstatic(静的)な正解は、現実世界に存在しない。
過去数千年、洋の東西を問わず数々の天才的偉人達が哲学的解(=真理)を追い求めた。
されど、未だ絶対的正解、イデアなるものは人類史上導かれたことは無い。

そもそも、「正解」とは特定フィールドにおける共通認識である。

時代、環境ともに世界は流転し、常識や正解は動的に変化してきた。
現代哲学を切り拓いたニーチェの「反哲学」は、真理や善が「価値」であるという前提に立脚していた、既存哲学を尽く破壊しリセットした。
本質は動的(ダイナミズム)であり、「動」こそが世界の事態そのものである。
これは現代哲学に通ずる基本的な認識であり、西田幾多郎の哲学も同様である。
川の流れが一つとして物理的に静止することがないのと同様に、
現実のあらゆる現象は、ミクロ・マクロどちらも動的変化しているのがデフォルトである。

大学1,2年次の教養課程で、文理問わず様々な分野を浅くかじった。
だが、単位を取るための試験が多く存在し、その試験も「提示されている正解」の記憶ゲームの域を出なかった。
たとえ講義内容に疑問を抱いても、時間制約上「そういうものなんだ」と諦め疑問を投げ捨てるフェーズが来る。
暗記ゲームの不毛さにたまたま辟易としていたタイミングで、専門の学部選定に迫られた。
或る教授の、「哲学は運動である」という表現を見たとき、これだと感じた。
まさに至言で、不断の探求活動そのものが、まさに哲学という思索・行動営為である。
イマニュエル・カントの『純粋理性批判』A版とB版、ウィトゲンシュタインの前期と後期の転換。
哲学者一人格とて、生涯を通じて自論を急転換する例は多々ある。

むしろ、日々追求する活動をするからこそ、認識は変容し自論もバージョンアップする。
固定化とは成長・変化の停滞を意味し、死を意味する。
固定化した観念に固執するのはなるほど忍耐的である。
しかし、言い換えれば変化という自然界への徹底的対抗、ないし進化の拒絶である。

日々、細胞レベルで生々流転するのが人体であり、万象の自然界である。

現在携わる、日本酒の世界もまさに同様である。
たとえ同じ年度の原料、素材、製法であっても、タンクが変われば味は変わる。
もっと言えば、タンクの上下や搾り方でも味が変わる。
空間軸のみならず、保存形態や熟成期間の時間軸で味が大きく変化する。
常に一時的、一期一会、テンポラリー、エフェメラルである。

日本酒は、変化とともに在る嗜好品である。
ダイナミズムそのものを物理的商品として現出している。
しかも、消費期限が存在しない、多くの食品が運命づけられる「腐敗」という物質回帰を超克した、不死の永続体である。

そもそも、食品とは自然界のダイナミズムと呼応している。
新鮮から腐敗へと変容し、調理によって素材の味は価値が変わる。
パウダーやサプリメント等の不変的な素材は、自然界を静的に固定化する意志の現出である。
それは、生成変化と対極の「物質性」を覗かせ、その先の「死」を想起させる。cf.ジョルジュ・バタイユ
生成変化とダイナミズムを鑑賞するに於いて、物質的な「重力」や「束縛」を忘れさせ、生命の躍動”élan vital”を感ずる。cf.ベルグソン

哲学史を概観したとき、現代哲学の大きな特徴は何か。
それは、ダイナミズム(動)の肯定である。
ニーチェの登場により、それまで善悪が前提とされた分かりやすく明晰な観念、不変なる真理への信仰が全否定され、拠り所が無くなった。
以来、動的で不確実な現実・事実というものを直視せざる得なくなった。

微生物という意志ある生命体は、近代科学の人類万能信仰を易々と破壊する。
常にミュータントが存在し、差異を生み出す。
現代の米も酵母も麹菌も、ミュータント(突然変異体)の連続の歴史である。
動植物の進化で今に至るのと同様、僅か1カ月弱の発酵プロセスにおいても、寸分違わぬグラフ通りを辿ることはまず無い。
動的進化の連続の上に成立するのが、自然界の生命体である。

近代科学は、予測可能性を要請する。
直線的なグラフや予測、自然の全知を是とする。
そこでは、100%再現性、公理系に立脚した数理空間での明晰性を善とみなす。
根本的なパラドックス、不測の事態等を悪とみなす。

しかし、徹底的に現実を直視したとき、人間の合理的な予測・認識は簡単に崩壊することが判明する。
有名なプラトンのイデア論。
正三角形のイデアは想像できるが、現実に正三角形を物理的に具現化することは、不可能である。
善のイデアは、天才プラトンとて、到達できず死し、現代哲学者でも誰も到達しない。
いわば現実世界に現れることのない(しかし想像が可能な)永遠の努力目標である。cf.善のイデア

絶対的正解の不在。
これが、現代哲学が打ち砕いた「神(絶対者)の死」である。
あらゆる生命体、組織も必ず流動性無くして存続しない。
動的平衡という、循環構造における暫定的な現在がstaticに見えているだけであり、固定化・静止を追求すれば、滞留が生まれ、淀み、腐敗し、崩壊へ向かう。
そこでは、「分解者」、目に見えない微生物の新陳代謝へと回収される。
よりマクロな動的サイクルに包摂されていく。
イノベーションや革新、挑戦とは、近視眼的な必要性によって要請されるものではない。
むしろ、世界そのもの、自然界のありようそのものである。
時速千数百キロで高速回転(自転)している地球上に我々が存在しているのと同様、
「動」に対して「動」であるからこそ「静」に見えるのであって、その逆ではない。

悩み、自論と格闘し、苦しみながら思索探究を続ける、その軌跡・プロセスが、哲学者の著作に表れる。
明晰なる論文は哲学書物には相反し、肉感のある著者特有の文体が本来である。
たとえば西田幾多郎の著作は、何度も同じことが繰り返され、一文は長く、本人も明確に何をいおうとしているのかわからない意味不明の箇所もある。これこそ、人間的である。もはや、近代科学の「論文」ではなく「随筆」に近い。ハイデガー然り、「論文」という体裁を採れるのは混沌とした思考を切り取っているに過ぎない。明晰な記号的な思考で完結した演算的論証は、もはや哲学的思索ではないと断言できる。歴史的に見ても、哲学書は本来そのようなものである。

たまに、哲学者の端的な結論だけを求められることもある。
実際のところ、結論は呆気ないことがほとんどである。
しかしそれは、義務教育時代の暗記テストの世界であり、哲学の価値の1%未満に過ぎない。
哲学の醍醐味とは、自分なりの答えをああでもないこうでもないと探究し続けるその「運動・プロセス」である。

しかしながら、存在(=質)が成立するためには、量を制限しなければならない。cf.ヘーゲル
すなわち、人間の認識は、動的平衡における自己同一性、会計帳簿の1年周期のB/Sの如き一時的静止ポイント、暫定的な有限ラインを引かずして存在を担保・認識することができない。
「形で表すことが大事」な所以である。
プロセス主義に対する結果主義の優位がここにある。

故に、先ず存在として成立させるべくプロセスを閉じ、自分の暫定解を構築する。
そして、その存在に内包される「否定性」を運動によって破壊し次なる認識を目指す。cf.アウフヘーベン
壊しては築き、気付かされながら納得するまで追究をする。cf.ヘーゲル、「絶対精神」
終わりのない世界であると同時に、有限的生における無限の趣味である。

コスパ最強の趣味が、哲学である。
試しては修正し、染まっては離れ、変動を繰り返す。
動的であればあるほど、常に新たな認識・知が生まれる。
そこには、自らが生々進化する至高の悦びがある。
これこそが、真のフィロソフィア(知を愛する人)ではないか。

生涯通じてStatic、ミリ単位の変化なし、というのは、個人的に面白くないし、人間的ではない。
「一貫させること」に拘るあまり、人間らしさを捨ててしまうのは、もったいない。
変化・変動、予測不能、逸脱が悪であるという近代教育のほころびが見え始めている。
「知」とは、暗記知識ではない。結果的に身に付くのが暗記したかのような知識なのであって、新たなる他者(知)に対峙することで生まれる、「認識の変容・驚き」こそが面白いのである。

思えば、そもそも正解の不在に惹かれて哲学に足を踏み入れた。

繰り返される暗記ゲーム、「正解」の氾濫、マニュアル縛り、万能感・自由度の放棄。
辟易とした。
何気なく取った「哲学」の教養科目で価値観が転覆された。
パラドックスを知り、「ゲーデルの不完全性定理」を知った。
哲学書に手を出し始め、逃走したくなる「自由」を知った。
「善悪の彼岸」を知り、あらゆるものがリセットされた。
古代哲学に通底する「いかに生きるか」という倫理学的視点を知った。
書物と格闘する中で、自己の「有限性」を自覚した。
現代哲学と自然科学に通ずる「絶対矛盾的自己同一」を知った。
肯定的な諦観を得、「パスカルの賭け」を知った。
古典文学に手を出し、「ファウスト」に出会った。
エピクロスに回帰した。
結論、「可能な限り味わい尽くしてから、死す」。
以上。

功利主義的発想や経済発想、すなわち数理モデルが武器となる世界では、合理性および画一化が有用とされる。
しかし、合理性に立脚する特定領域をいったん置いておいて(≒エポケーし)、生きるとは何か、何故存在しているのか、いかに生きるか、といった人類普遍の基本的な問いに向かったとき、「正解」として叩き込まれてきた合理主義の幻想は、単なる方便の1つにしか過ぎないと感じてくる。
人間の限界値を規定し、人生という舞台演劇を標準化し、認識を平準化してきた近代型教育システムは、少なくとも世界史上の英傑に比肩する面白い・異次元の人間を産まない。
天才的思想家達の書物にあたれば、およそ同じ一人の人間とは思えない異次元の思考に圧倒され、自身という矮小な存在の自覚しか生まれない。
「正解」の暗記および演算的論理武装という無思考型の修練は、骨身に染み付き潜在意識と化し、無意識的に大きな足枷となっていることは確かである。(現に、私自身の現状の生き方は、真にリミットを外した領域とは程遠い、抑圧に抑圧を重ねているカス次元である。同時に、体裁を気にする日本文化の染み付いた一日本人なのだと改めて感ずる。)

一見すれば古典回帰、人文礼賛のロマン主義であるとも言える。
されど常に日々思考すれば矛盾と変化は発生する。
「流動性」を肯定する。
現実をそのまま肯定し受け入れる。
変化OK、境遇全て肯定、日々の煩悩は結局杞憂。
常に流動的であり、その流れ自体に身を置き、都度現在の自己の認識の限界を受け入れ、偶然のゆらぎを結果論的に期待しながら為すことを為す。

方法論の呪縛、目的と手段の逆転はあらゆる業界で普遍的である。
この呪縛や視野狭窄の源泉をたどれば、「守破離」の「守」のメンタリティに端を発する。
帰着するのは、凡そ「あなたが世に刻みたい(表現したい)ものは何か?」である。
画家が白いキャンバスを前にして「そもそも自分は何の絵を描きたいのか?」と問うている様と同じである。
リゴリズム(厳格主義)を是とし、長い物に巻かれ、道を外さぬ自縄自縛の精神にある限り、永遠の「守」と画一的価値観の共同体世界観で幕を閉じる。
一方、「脱コード」や「問い」が世界創造の源泉であることは、歴史で明らかである。
だからこそ、創造の悦びを志向する者(それが面白いと感じる者)にとって重要なのは、「離」を一撃で意志行動できる勇気・度胸・自信のメンタリティである。

そもそも、「守破離」という金科玉条的な例えも所詮は1つの考え方でしか無い。
アカウンタビリティ(説明責任)確保のための、業界研究や「守」の時間、お決まりの手続き作業は畢竟、パフォーマンスにすぎない。
たとえば、世の資料作成業務の大半がそれ(≒エクスキューズ)である。
生き方や行動含め、エクスキューズ(言い訳)に貴重な時間を蕩尽していることに自覚的であるか否か。

フラットに立った時、拠り所になるのは何か。
それは、「自分の哲学」である。
かつて信じることができた「正解」や「ロールモデル」の不在に不安を募らせる現代社会において、唯一の指針として生命の活力を与えるのは、「自分の哲学」だけである。

よく、「哲学」を学ぶというと、過去の哲学者研究に終始し、解釈のみで終わるものがある。
論文と言いつつも、「で、あなたはどう考えるのか?」が示されないものが多々ある。
それは「哲学者学」や「哲学史」であって、「哲学」ではない。
自論の記述はいらないとまで言われたアカデミズムの論文作法にずっと疑問を感じざるを得なかった。
もちろん、一部の学術領域では「自分の頭で考える哲学」を志向するものもあるが、哲学科に在籍した短い経験から言って、多くはそうではない。私にとって、根本的に目指しているものが異なると感じた。
近代以降、哲学が「学問」に配置された過去がそうさせているのであり、本来、むしろ在野に開かれた万人の営為であるはずだ。

己自身の哲学、信ずるものを”我教”とかつて勝手に一人で命名した。
人類皆、一人ひとりが”我教”の教祖であり信者である。
人間の数だけ、信仰が存在し、全てが正解も不正解もない。cf.現代哲学、他者性
何故ならば1人として同じ環境・体験・五感・思考で育った人などいないからである。
そして、”我教”の構築にあたって、哲学という古今東西、数千年来の思考の軌跡は最強の参考書であると思う。

哲学史の蓄積の中には、あらゆる事象に対してメタ視点で問うことができる最強のスキームがある。
「論理的であること」や「確からしさ」に対して、メタ論理で脆弱性や自己矛盾を指摘できる唯一の領域である。cf.科学哲学
いかなる派閥や論理に対しても、無限に「問う」ことができる。cf.ソクラテス
知れば知るほど、怖いものが無くなる一種の恐ろしさすらある。
同時に、生きる限りに於いて常に「脱コード」の余地があり、知らない世界を知る(=認識を拡大する)余地がある。
これは、没頭冷めやらぬ不可解なる世界の無限探求活動、認識拡張ゲームである。
プラグマティックに考えれば、これほど人類に開かれた可能性、エンドレスな趣味は他に無い。

だから、哲学はやめられない。(笑)

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