人はなぜ、ものを考えるのか。

哲学

思索するその先にあるものは?

人はなぜ、ものを考えるのか。
動物と人間を分けるもの、考える葦、ホモサピエンス、様々な定義に付随する、人間の思考。

思索をその旨とする「哲学」は、ある意味で最もシンプルな暇つぶしの1つであり、答えのない解を延々と求め続ける「不毛な」営為である。

わけも分からず立たされた、人生という舞台に対する「生きる意味」の意味付与活動が思考でもあり、思考が求める先は自己納得である。

納得感そのものは、客観性を拠り所とする人もいれば、生存圏の風習や宗教を拠り所にする人もいる。納得感は、相対的であり、視座によりけりだ。

納得感のその先は?

納得感を得るその先は何があるか。

現実は須らく行動へ帰着すべしという陽明学的観点に立てば、納得感とは、己の行動に際する勇気の源泉、後ろ盾、理論武装、決断の契機となるだろう。
複雑な問題をシンプルに分解し解体し、「分かつ」ことで物事が明確化され、行動の選択肢が絞られる。
ここでは科学的な知(再現性を担保しようとする知)に依拠する場合もあれば、敬愛する◯氏が仰ったのでといった事実に依拠する場合もある。
現実世界への行動へ帰着されない限り、世の事態は動かない。

一方、納得感が行動に帰着しないパターンも当然ある。
納得感は、「分かった!」という感情と似通っていることから、雑学ネタ、アハ体験のような、知そのものに対する面白さ、無限の雑学探求活動、ブラックボックス解体の爽快感となることもある。
およそ伝統的な哲学の世界は、こちらの傾向が強い。

行動とはなにかを考えた時、手を挙げるのは「行動」か「行為」か?その定義は?云々。。。

このような、別ルートにさまよう前に、目的と手段の関係性を改めて問い、原因と結果の呪縛、論理的な思考そのものも問いを向けるべきである。

生を肯定するということ

たとえば、「人はなぜ、考えるのか。

といったときに、

「生を肯定するため」

という1つの考え方ができると思う。

斜に構え、表層情報で世の中を批評するコメント活動、昨今揶揄されるマウント思考などは、アフター5の愚痴文化、SNSの誹謗中傷、妬み嫉み等々と目指す場所は結局同じ、「自己肯定感を高めるための営為」である。

全能感を欲し、万能感・神の視座、より高みを目指す。
人間は、単なる「差異」であっても、「優劣」のように新たに価値を内在させる。
この価値を内在させる動機はなにかといえば、己自身の「生の肯定」であり「強く生きるあり方」である。
価値を内包した視座(メガネ)を持った我々人間は、「比較」という行為を行い、恒常性(ホメオスタシス)を求めて物理的行動のアクセルを踏むわけだ。
現代資本主義システムは、アクセルを名一杯踏むよう強いてくる。
本来的な、生の肯定を忘却し、剣闘士の如くハイリスクなアクセルを吹かすよう急かす。

現在よりも「より善く生きたい」という、生の意志、力への意志のようなものが、人間には根源的にあると思わざるを得ない。
それ自体は、ニュートラルな価値基準における、単なる事実であり、数学の点の定義や線の定義と同様、「信じるか信じないかはあなた次第」の次元である。
ちなみにこの次元が数多存在するのが、哲学の世界であり、各哲学者毎にその系が存在する。

「より善く」生きる、2つの側面

「より善く」生きるとはどういうことか。
ここには、「体育会系」と「文化系」の2つの側面があると思う。

人類は形を変えて今なお闘争を止めない。受験戦争、領土争い、シェア争い、派閥争い、人間界も微生物界の侵食と駆逐同様、生存本能のエネルギーを炸裂させ相克し合う。
これは典型的な「体育会系」の生の肯定である。

一方、「文化系」の生の肯定は、マルクス・アウレリウス・アントニヌスのような、静謐で健全な心の安らぎ、境地を目指す生の肯定である。
ヘレニズム時代の哲学に代表される、「文化系」の生の肯定は、ミレニアル世代ないしゼット世代以降の価値感が示す通り、これからの時代を予想させる。

思考の源泉には、生の肯定・力への意志があり、「いかに善く生きるか」という不断の問いが織り込まれている。
ともすれば、世相として「体育会系」の生の肯定ばかりの時代であるが、「文化系」の生の肯定という選択肢の存在を、忘れてはならない。

よく言われる、「生きる意味」などの問い、存在事由の問いは、生の肯定という生来的なエネルギーからくる意味付与の結果、生まれるものである。

生を肯定するエネルギーは、色や形を変えて常に炸裂し続ける。
赤い炎もあれば、青い炎もある。

この2種類の根源的な炎を自覚し、日々生きることは、およそ平和な社会に少なからず寄与するはずだというプラグマティズム的発想に帰着させる、今日この頃である。