アナログおよび人間であることの価値

思索

アナログおよび人間であることの価値

20世紀は、画一化、普遍化の時代であった。
より広く、より多く。
標準化し、画一化し、効率化すること。
いかに経済性と効率性を重視するかの時代であった。
要は、「グローバリズム」の時代であった。

しかしながら、昨今の世界情勢に見られる通り、その国・地域であることの必然性、己自身の存在事由、アイデンティティーの時代が到来した。
2008年のリーマンショック然り、経済的合理性を追究したグローバリズムに対する疑問符が立ち上がってきた。
国が違えば文化・環境は当然違う。
各国それぞれの個性・特徴があるからこそ、たとえば海外旅行で非日常を味わう。
世界から「異」が消えれば、SF映画で登場する画一化されたまったくもって面白くない管理社会が到来することになる。

「異」の肯定

「異」であること、「個性」を肯定しなければ、世界は面白くならない。
「異」が消えることほどつまらないものはない。

日本であれば、日本であることを全力で個性発揮すべきである。
もし経済事由その他により欧米と同質化した社会となれば、訪日観光の動機など無くなる。

現在の日本酒は、無色透明であることが普通であるが、たとえば明治から大正時代にかけての日本酒は、色が付いたものが普通であった。
1933年、縦型精米機の登場により、精米技術が躍進し、無色透明の綺麗な酒造りが可能となった。
1970年の万国博覧会を機に地酒ブームが起こり、灘や伏見以外の地方の酒蔵の存在が認知された。
このように、技術や時代の流れは業界の常識を常に変え、日本酒業界は変遷してきた。

まるで盛者必衰の理をあらわすが如く、「常識」や「正解」は変わる。
時代とともに美醜の認識が異なるのと同様、食文化や環境によって味覚も当然異なる。
100人中100人がおいしいと思う商品開発、これは大資本コングロマリットの仕事であり、化学(ばけがく)の世界である。
多様性を度外視した画一的な方向である。

生産物に思想をのせる

「お手本」に嵌った窮屈なものづくりに終始することに、果たして楽しみは在るのか。
そこに不確実性、偶然性の面白みはあるのか。

人間が造る以上、プロダクトに造り手の思想や想いを載せねば、その存在意義は薄い。
大量生産の機械化された、規格品、汎用品をつくる場合は、むしろ人間が介在してはならない。
AI、IoTが発達し、殊に人口減少社会に突入する日本において、ルーチン化された単純作業がロボットや機械へ代替されていく流れは必定である。

AI(人工知能)が設計したプロダクトに、思想は無い。
思想とは、生きた人間にしか付随しない。
だからこそ、人間自身がつくる意義、アナログ性がますます重要になってくる。