情報社会における、知識と教育
膨大な情報にさらされた現代、改めて「知識」とは何かを再考する必要がある。
普通、知識というと「ストック系の知識」を想定することが多い。
1789年にフランス革命が起きました、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元に勝利しました、等。
多くは日本の義務教育のテスト、「勉強」のイメージがそうさせている。
しかし、お分かりの通り、今やググれば「ストック系の知識」は誰でもスマホ・PCで引っ張れる時代。
暗記量と引き出しの瞬発力を競う、「クイズ王選手権」は不毛の時代。
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「知識とは使用できるものでなければならない」と言った。
記憶しているということと、使えるということは別次元の話である。
高校の倫理の授業では、プラトンがイデア論を言ったのですよ、など断片的なストック知識を記憶させられる。
しかし、そのプラトンがいかなる時代背景の中に生き、行動し、どのような価値観の変遷を経てイデア論に到達したのか、トレースすることはまず無い。
だから、まず現実的行動の感性イメージも湧いてこない。
たとえば、「正義」についての知識とは何か。
マイケル・サンデルの書籍然り、応用倫理学者達の論文然り、情報をストック(暗記)するだけでは不十分である。
現実行動として「正しい」行為ができるようになって初めて、知識といえるとプラトンは言う。
情報は、必ずしも行為・行動に帰着するとは限らない。
これは、教育の世界にも言えることである。
教育とは何か
オンラインで勉強ができる現代、N高のような新たな学校教育のスタイルが出現している。
擁護系の議論においてよく前提とされているのが、「ストック系知識」の受け渡しこそが学校教育であるという前提である。
たしかに、過去の義務教育のテストを考えれば、畢竟「暗記ゲーム」であり記憶力の勝負であった感は否めない。
教師の授業スタイルも、ググれば分かる知識をただ紹介するだけの情報の紹介業「知識ブローカー」であれば、その通りだと思う。
効率性を考えれば、当然である。
しかし、本当に教育とは、教師の役割とは、「知識ブローカー」に徹することなのだろうか。
かつてアリストテレスは、教育とは「人間の行為を導く力をつけること」と定義した。
ここで重要なのは、「行為」「行動」「実践」が絶対的に必要であるということである。
たとえば、日本においても、戦後、学生闘争に代表される共産党系の革命機運の高まった時代においては、「行動」の色が強かった。
行動のための理論武装の役目として、マルクス主義等社会主義思想が要請された。
学生闘争や社会主義革命の是非は置いておいて、知識が行動に帰着している代表例だと思う。
その後、テロルや内部闘争、ソビエト崩壊を経て行動が収束するにつれ、革命家達は高度経済成長時代の企業戦士に渡世し、理想を語ることを恥とし、バブル経済の中、即物的価値観を醸成していった。
人文学の世界では、「己自身で語る」人間は激減し、古典研究や海外書物の紹介業に明け暮れ「知のブローカー」が量産された。
知識人とは、自らが行動しコミットメントするものではなく、評論と文献研究、海外書籍を翻訳するものであるという雰囲気。
今なお、その感覚がアカデミズムの世界では受け継がれていると想像する。
現に、私自身が大学の授業で感じた違和感は、「ストック知識」の披瀝合戦、現実的行動との圧倒的乖離の世界であった。(私見・偏見を多大に含む)
特に、哲学は「いかに生きるか」という現実世界における「行動」と不即不離であるという信念を抱いていた自分にとっては、その自己矛盾的様相が残念でたまらなかった。
「哲学学者」はすぐ見つかるが、「哲学者」は果たしてどこにいるのだろうか?
行動不在の知識提供は、教育ではない
明治維新期、欧米列強の技術紹介という翻訳業は、その当時は非常に重要な役目であり、その翻訳者の力を借りて、実際に行動した明治期の日本人たちが数多いた。
しかし、現代は情報過多の時代である。
国境が事実上消滅した現代、外界知識の翻訳業は、既に十分すぎるほど達成されている。
「ストック系知識」は有り余っている。
逆に、その翻訳された情報を、どう現実に使うか、行為として達成するか。
この点がほとんど見失われている。
需給バランスがおかしい。
情報過多の宝の持ち腐れが、現代である。
現代の教育、教師の役目とは、知識のリアルな実践の場の提供である。
アリストテレスがかつて言ったように、「行動する力をつけてあげること」こそが教育である。
情報がインターネットに溢れた現代、「情報の流通業」は終焉しつつある。
教育の真の価値とは、情報伝達に付随する実践的行動の場・機会の提供ではないか。
「何を記憶しているか」ではなく「何をした・しているか」
上記のように感じている時点で、プラグマティズム的かもしれない。
プラグマティズムとは、ざっくり言えば「使えれば何でもいい」ということである。
もちろん、情報の正当性や確からしさは重要である。
しかし、現実世界への応用・行動を考えたとき、行動できるチャンスを潰してまで、情報を重箱の隅を突きチェックし続ける作業は、有限時間に規定される、特に社会人にとっては不毛ではないか。
情報の正当性・整合性をチェックするのが学者であるとすれば、教育者とは、使える技術を実践を通して身につけるコーチ的存在であるべきであり、現実社会の創造を前線で担う社会人は行動家であるべきである。
今日明日、使えないと意味が無い。
何故なら、今現在を物理的に生きているのが人間だからである。
結局、「何を記憶しているか」ではなく、「何をした・しているか」に圧倒的に価値がある。