「自分探し」は果たして必要か

思索

「自分探し」は果たして必要か

よく聞かれる質問がある。

「なぜ、跡を継ごうと思ったのですか?」

おそらく、酒蔵はじめ老舗企業の跡継ぎは皆、聞かれる質問だと思う。

昔から、親に「跡を継げ」と言われたことは一度もなかった。
今思えば、子供の頃から覚悟をしていたし、自然にそれを受け容れていた。

というのも、「自分」とは既に生まれた家の環境を引っくるめて自分である。
幼少期から全ての過程において、野球をさせてもらえたのも進学の機会を与えてもらえたのも、己単独の力でどうこうできるものでは無かった。

すでに「自分自身とはなにか」のアイデンティティは、育ってきた全ての環境・過程・歴史そのものである。
たとえば、自分が「日本人」ということを離れて思考することができないのと同様、母国語の感性、思考のクセを始めとした「自分」は既に逃れようのない事実そのものである。

現実を受け入れ、この境遇を肯定的に受け入れ進む。
それが宿命であればそれを受け容れた上で邁進するだけ。

こうした発想は、徹底的現実主義やニヒリズムの超克など、小難しい概念を知るより前に、感覚的に受け容れていたと思う。

「われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。」(『反革命宣言』三島由紀夫)

そして、学生時代に種々の書籍を乱読していた中で、偶然出会った上記の一文は、今なお記憶しているほど強烈なインパクトを受けた。

折しも、西洋哲学関連の理性的説明や論証方法と「肉感を持った納得感」との間の乖離を感じていた頃。

三島由紀夫と東大全共闘との有名な対談(Youtubeとかにある)にあるように、地を持たぬリアリティの無い空想上の「世界市民」的発想を感情論で以て断じる様子は、清々しいものである。

こうした「感情的な納得感こそ論理的妥当性を上回る」という考え方は、特に人文学分野では根幹に関わる問題だと思う。

老舗企業の家に生まれたならば、それを継ぐことが既に答えである。
だから、自分探しをする必要など無い。
自分は既に「ホントウの」自分である。
自分自身の現在・歴史をニーチェの超人思想の如く肯定的に受け入れ、前に進むのみ。

このように学生期にあらためて確信したからこそ、たとえば自分の場合は家業である酒造業に身を投じている。

継承とは、日本文化そのものである

「継承」のトピックでいつも思うのは、「日本文化」との関連性である。

上述の三島曰く、日本文化の特徴とは「形・フォルム」である。

文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形をとろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する。(『文化防衛論』三島由紀夫)

そして、「日本文化は、本来オリジナルとコピーの辨別を持たぬこと」とする。

彼はその端的な例として、伊勢神宮の造営を挙げる。
伊勢神宮は、過去何度と無く焼失や再築を繰り返し、物理的には昔と異なるものである。
しかし、今なお「伊勢神宮」は存在し続ける、すなわち「形・フォルム」こそが日本文化の特徴なのである。

一方、西欧の文化感覚の場合は「物理的な保存」に大きな価値を置く。
目に見えるものにこそ価値があり、精神や魂に対する考え方は日本と異なる。

これは、飛鳥時代より続く世界最古の企業「金剛組」も同様であり、全ての組織や企業に通じる話でもある。

つまり、継承の行動それ自体が既に文化そのものである。

老舗大国である日本には、継承の契機は溢れている。
倒産・廃業が益々加速する今後の日本には、資本主義ロジックで以て諸国と画一化し同質化し、文化が失われてしまうのではないか、単なる特徴無き一種のIsland、世界の州国と化してしまうのではないかと危惧する。

「差異」があるからこそ、世の中はおもしろい。

戯言。