個性的になるということ

哲学

個性的になるということ

※三木清『人生論ノート』読んでのメモ&雑記。

怒れる者とは、正義を知るものである。正義・主義の蹂躙が「怒」を覚醒させる。義人でなくして怒ることはできず、現代の成年世代の躾の甘さはここに現れ、同時に己の主義・ポリシーの欠落を顕にする。

二種類のストイシズム。虚栄心と名誉心。前者は、世間、アノニマスな「他者」を相手とした消費的堕落。後者は、己の内側が相手、個性の確立。

主義・ポリシー、芯なるものは当人が当人自身の人格的修養を目的として確立されるものであり、世間体、マーケットニーズに迎合した戦略的「こだわり」は、自然的とは言えない。

個性的であろうとする没個性的所業

動物に比して人類は何故「個性」が顕著であるのか。

流行や「作られた(お仕着せの)レジャー」、迎合とは虚栄にほかならず、テレビジョンによる「枠(価値観)」のあてはめは、迎合や同質化・画一化を要請する没個性化の所業である。

「芯がある」とは、多面からはじめて知れるものであり、内発的習慣化が先立つものである。

たとえば、それは生き方であったり小説としてのフィクションになる。
人生イコール1つの小説・フィクションの創造であり、芸術家・作家とはこれを多数創造し消費者は事後的にこれを追体験する。

己自身の哲学を確立せんと行動し続けること

故に、いかに「個性的たるか」の答としては、「己自身の哲学を確立せんと行動し続けること」になる。すなわち、動的に暫定解として自身の信念を打ち立て続けることである。

メディアやその他有名人、他者を見、模倣する必要性は皆無であり、徹底的に自己を見、向き合い、本心的に貫徹したいもの(好きなもの、正しいと信ずるもの、せねばと力の湧くもの)に尽力するのみである。