言語と存在、そして使用

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言語と存在、そして使用

言語は、無理数の表記に同じである。

π=3.1415926535897932384626433…

要するに、記載不能。

ともすれば、通常、言葉で世界を表現できると思いがちである。

しかし、同じ「痛い」や「赤い」という言葉が示す者が人によって異なるように、
人間は言葉という抽象表現・記号を使って意思伝達を図っている。

哲学者ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』にて、世界の記述を論理的言語にて記述可能であることとを証明しようと試みたが、瓦解を自覚し、後年はむしろ言語の記述不能性を受け入れる論の展開を行った。

このことからも分かるように、世界を切り分け余すところなく表現することは、言語では不能である。

言語を含め、数学等いかなる記号によっても、アキレスと亀、ゼノンの矢のパラドックスの如き、無限の余地が生まれる。

現実そのままのありようが常に「大」であり、そこから言語という概念によって認識を構成している。
虹の色が文化圏によって数が変わるのと同じであり、存在と言語は不可分である。

たとえば、「そうめん」という言葉を知らない者にとっては、粉物の麺はすべてうどんに見えるかもしれない。その人の中に、「そうめん」は存在しない。

では、言語はいかにして習得するのか?

これも、ウィトゲンシュタインの後期哲学である「言語ゲーム」の観点が有用で、すなわち「その使用によって言語が定義される」のであり、若者言葉や用法が誤りと知られつつも流布する言語などがその典型例である。
大工が「釘」と弟子に言った言葉は、「今作業中の柱に合った釘を渡せ」という意味であり、「釘」そのものではない。
使用される環境やコミュニティ、文化圏での、「使用」に依存するものである。

特定の国や地域などの環境において、言語使用に触れること。
これが、言語習得にほかならず、日々更新されるニュースで今流行りの言葉を吸収していく。

これは、分割不能な大なる現実世界から、言語によって存在が抽出されることである。
ハンバーガーという言葉・概念が生まれる前は、ただのパンと肉である。

概念の創造は、一種の価値創造に等しい。

哲学の作業は、概念の創造、構築、破壊(再定義)がふんだんに行われる。

ここまで考えると、概念を想像した後は、「使用」することがいかに重要かが分かる。
使用によって存在せしめなければ、現実における存在は拡張しない。

使用すること、発することは、一般に恐怖をともなう。

しかしながら、「自己という存在がいかにどうでも良い存在であるか」を自覚すれば、何ら恐るるに足らないと思う。
何かから根源的に護る(閉じる)必要があるのか、自分という存在はそれだけの聖者であるのか?
この単純な疑問を学生時代にふと頭に過った頃から、発することに対してのメンタルブロックが外れた気がする。

また、最新のサイバー技術を知れば、用意に想像がつくことであるが、たとえば現代技術において、個人情報なるものは最早、隠匿が不能である。
むしろ、過度の隠匿態度は、社会的不正義の可能性を自ら表明しているに等しいのではないか。
要するに、真っ当に生きていれば、そもそも隠れる必要など無い、と思う。
ちなみに、FacebookのザッカーバーグCEOも同様のことを言っていた気がする。

だからこそ、意味不明な(自分語の)ツイーティングを行い、使用によって己の中に概念を存在せしめていたりする。(笑)

2018-12-02T17:10:24+00:0012月 2nd, 2018|哲学|